くじらの博物館デジタルミュージアム

太地の「六鯨」

Scroll

紀州のくじらや捕鯨を描いた数十の絵巻が太地町立くじらの博物館や米国マサチューセッツ州のニューベッドフォード捕鯨博物館に伝っています。それらの多くには、「六鯨」つまり太地の鯨組が主に狙っていた六種類のクジラと、さらにそれら以外の数種類の鯨類や魚類が描かれています。鯨組の宰領は、人に乞われて捕鯨を説明するとき、こうした絵示しながら、筆舌に尽くし難しい大きな獲物とその捕獲の様子を絵解きしたこともあったのでしょうか。

「鯨種類并ニ異形巻物」(箱書)

Emaki 6

詞書の後に太地浦の鳥瞰図が描かれている。それに続く二艘の勢子舟の水押には太地鯨組の紋である井桁が描かれている。ただし舟の様式や意匠も他の資料に表現されているものと大きく異なっている。詞書以下には鯨類を主とした二十八頭の生物が描かれている。鯨類に加えて、マンボウ、エイ、サメなど、さらに「カイタツ」(アシカ)や「オツトセ」と題されたラッコのような生き物、全身に毛皮をまとったイルカも描かれている。

「紀州太地浦鯨大漁之図鯨全體之図」

Emaki 7

ザトウクジラを網に掛け銛打ちする場面が精緻な筆で描かれている。その後に納屋の作業の様子が続く。網、銛、樽、舟など、鯨組が使用する様々な道具は、港の前に位置する向島にあった納屋で製作、補修されていた。その作業の様子はこの絵巻中以外にこれまでのところ発見されていない。巻頭に詞書があり、その後に十一種十一頭の鯨類の全体図が描かれている。「文久元年辛酉三月吉日写之」とあり、比較的新しいためか、彩色鮮やかである。

「紀州熊野浦大魚之図」

Emaki 8

個人蔵の絵巻を中谷重雄氏が模写したものである。五種類の鯨の下には小さな鯨が描かれているが、これらは子鯨あるいは胎児であろうか。

太地浦鯨絵図

Emaki 9

絵巻は普通右に開いて左方向に広げるものだが、この絵巻は左から開いて右方向に広げる変則的なものである。セミクジラの解剖図も描かれている。

古座浦鯨絵図

Emaki 10

セミクジラの「骨組之図」、古座の勢子舟二艘、網舟一艘、そして道具類が描かれている。

太地浦捕鯨絵図

Emaki 11

和田正八氏は太地鯨組宰領の子孫であり、太地中学校の美術教師、後に教育長も務めた。絵の原本は和田本家に伝わっているものである。南極海捕鯨作業中に事故で亡くなった向井春司氏の供養のため、兄の向井淳氏の依頼で製作された。太地中学校に寄贈され、後にくじらの博物館に移された。

鯨絵図

Emaki 12

巻頭に描かれている「コトクジラ」は、おそらくゴンドウのことであろうが、模写された際に背びれが二枚描かれてしまった。「味下」とは、美味しくないという意味であろう。和歌山県立博物館所蔵の「鯨絵巻」と酷似しており種本の関連が考えられる。

古座浦捕鯨絵図

Emaki 13

十一種の鯨類の後に解体されたセミクジラの部位、道具類、勢子舟、網舟、網、そして捕鯨の様子が描かれている。鯨舟水押の紋は古座組の卍である。

「紀伊古座組鯨方絵巻図誌」

Emaki 14

古座町助役を勤めた中根七郎氏は郷土史家として捕鯨史料も収集しており、その一部は後に祭魚洞文庫に納められた。本絵巻の由来は不明だが、昭和十一年に中根氏が模写したものであることが詞書から分かる。

太地浦鯨舟絵図

Emaki 15

太地の鯨舟には、鯨を追う勢子舟、網を張る網舟、鯨を両脇から挟んで曳航する持双舟などがあった。勢子舟は寛文二年(1662)から漆塗りとなり、その二年後には八丁櫓となって相当な速度で鯨を追うことができたという。勢子舟の意匠は一艘ごとに異なっていた。海上の責任者である筆頭刃刺「沖合」が乗る一位の舟の意匠は「桐に鳳凰」で、以下「割り菊」、「松竹梅」、「桧扇」といった煌びやかな吉慶の意匠が選ばれた。

捕鯨絵図

Emaki 16

鯨舟には紋や意匠もなく、地形も一切描かれていない。構図も他の絵図と明らかに異なる。巻頭の詞書の最後に「文政のはしめ寅のとし紀国のみやつこ紀三冬」とある。紀三冬は和歌山の日前国懸神社宮司で国学者。

鯨及捕鯨道具絵図

Emaki 17

捕鯨道具の詳細な説明に続いて、十一種の鯨類が描かれている。

太地の古式捕鯨の動画